The White Report 月間ウェブマガジン
The White Report 2019年 1月号 毎月25日更新
–目次–
- 『杉山 雄二「Individual Projection」』
- 江間柚貴子(写真家)
- 『生きている静物画』
- 大山純平(写真家)
- 『偏愛的写真集覚書』
- 杉山雄二(写真家)
- 『reference』
- 澤田育久(写真家)
江間柚貴子 (写真家)
肖像写真というとよく知られたところかつ古典といえばナダールやアウグスト・ザンダーで最近でいえばトーマス・ルフの功績だろうか。
杉山の焚き火を見つめる人々のポートレートをみていると煙がかかっているせいもあるのか、その人の存在自体も煙にまかれたようにポートレートという具象度の高い写真でありながらどこか匿名性を持つような曖昧な印象を受ける。
その人がどういう人物なのか少なからず想像してしまうのが肖像写真の性質かと思うが「Individual Projection」では、創作された被写体のパーソナルなエピソード、それに関連する写真群は杉山のねつ造であると気付いた瞬間にさらに被写体をどこにでもいる普遍的な存在へと変え、抽象度を高めていく。
ところで話は変わるがGoogleストリートビューを好きでよく見るのだが、そこに偶然写ってしまった人々にはもちろん顔にモザイクがかけられている。それにもかかわらず、その写ってしまった人々の存在感の強さというな、何か生々しいもの感じとってしまう。意図せずに撮影されGoogleストリートビューという仮想空間でモザイクをかけられた人より、杉山のポートレートの被写体の方がなにか現実的でないような気がしてしまうのは何故だろうか。
いつの時代のポートレートでもそうだと思うが人間は撮影されると意識した瞬間に、人から見られている自分を演じざるを得ない。とりわけ現代ではSNSなどで自撮り、プライベートな写真、それにまつわる日記的な文章で溢れかえっている。いわば写真上で演じる造ることが当たり前でさらに文字でもそれを強調するような時代である。
私たちはもはやポートレートでもパーソナルな物語でも意図されたものからはリアリティを感じことができなくなってしまったのではないだろうか。
「Individual Projection」では、写真というメディアの不確実性を示唆しているが現代における予め意図され提示された人物像にも一石を投じるようなそういう性質を持つように思う。
プロフィール:
1990年生まれ
東京綜合写真専門学校卒
大山純平 (写真家)
彼は自分がどこにいるかわかっていたし、自分の姿を目に浮かべることもできたが、その現場からかけ離れている心地がした。夜、自転車に乗る男女が私を追い越していった。彼らは同じデザインのジャージを着ていた。男性の自転車のすぐ後ろを女性の自転車が続く。彼の背中に彼女の自転車の照明が当たり続ける。「操られているから動けない」と言う老人女性がいた。歩道を歩く母親と幼児。幼児は片手で母親と手をつなぎ、片手で歩道に等間隔に配置された杭の頭をひとつひとつ手の平で叩きながら歩いていった。老人男性が瀕死の柴犬を台車に載せて散歩していた。「私の名前知ってる?」と通行人に笑顔で話しかける中年女性がいた。改札を抜けると左手にATM、小さな動物のフィギュアの自販機、パン屋が並んでいる。パン屋の店内で席に座ってパンを食べる人々。通行人の私からは少し高いところから彼らを見下ろす形になる。下半分は半透明、上半分は透明なガラス張りの陳列棚。半透明と透明の境界線上におよそ十人分の様々な頭部が見えた。席の端に座っていたマスクをしている白髪の男性がこちらを見ていた。そのまま歩くと各種分類されたパンが陳列された棚が私の視界に入る。頭部を見てはいけなかった。パンを見るべきだった。パンは死んでいる。痩せ細った老年男性がこちらへ向かってくる。黒ずんだ顔に白い髭を生やし、オレンジ色のメッシュキャップ、オレンジ色と茶色のチェックパターンのウールシャツ、ダメージデニムパンツ、シルバーのブレスレット、リング、ウォレットチェーンを着用している。歩幅を小さく、ほとんど摺り足で、ごくゆっくり歩いていた。油汚れ用の重曹スプレーのノズルが詰まってしまった。重曹と水を混ぜる際に重曹を入れ過ぎたのだ。トリガーを引いても何も出ない。しょうがないのでノズルを取り外して使うことにした。中の液体をキッチンペーパーに染み込ませてコンロ周りを拭くと白い拭き跡が残ってしまった。どういうわけかそれをそのまま放置して、拭き跡を見ながらチャーハンを作って食べた。道の真ん中に黒いヘルメットが転がっていた。私の歩く先に「めし」と書かれた幟がはためいていた。幟の文字を見ながら声には出さずに「めし」と口を動かす。「めし」の上にもう一文字書いてあるが、布が風に吹かれて翻ってしまい読めないまま通り過ぎてしまった。そんなどうでもいいことのために振り返ってはいけない。「KAMINARI」と書かれた看板を見ながら「かみなり」と口の動きだけで繰り返す。道を隔てたところからホームレスが歩道に寝転がっているのが見えた。私は数秒ごとに複数回に分けてホームレスを見ながら、足の遅い年寄りの男女を追い抜いて地下鉄の入口へ向かった。電車内、中年女性が降車するため立ち上がると、彼女のどこからか白いものが床に舞い落ちた。それは彼女のレシートだった。彼女のレシートの落ちているところには何もない。駅前のパチンコ屋がいつの間にか更地になった。ラーメン屋と花屋の間の道でうつむきながら端末の画面を触っている人々。自転車に跨ったまま画面を触り続けている人もいた。私の前を歩く若い男性が着用しているMA-1タイプのジャケットの裾から数センチはみ出た白いサーマルシャツ、脚の輪郭が強調されるスリムなデニムパンツを見ながら帰宅した。駅のホームに立って乗車待ちをしている人がいる。彼は右手に靴屋で買ったばかりのスニーカーが入った袋を持っている。白地に青色のボーダーが入った巾着型のポリ袋。まもなく電車が到着する。が、そこには誰もいなかった。誰かが持っているみたいに立てて置かれているポリ袋に入った買ったばかりのスニーカーがそこにあるだけだった。自宅から出ると男性の叫んでいる声がした。続いて液体が地面に落ちる音。そこにはスーツを着た中年男性が自宅の前の横断歩道の近くの電柱に右手をついて斜め下を向き、大量に嘔吐していた。嘔吐と嘔吐の間に大声で何かを叫んでいた。横から見ると腹が突き出ているのがよくわかる。私の方に向かってくる通行人は歩道から車道へ移り、進行方向だけを見て、嘔吐している彼を通り過ぎた。信号が変わり、歩き始めた男女は横並びの隊列を崩さず、歩道部分から大きく外れて、信号待ちの車の近くを通ると、まっすぐ前を見たまま硬直した二つの顔面がヘッドライトに照らし出された。焼き鳥屋で女性が店主の男性に話しかけていた。「レバー」「え?」「レバー」スーパーで納豆のパックを各種順番に裏返して何かを見ている女性がいた。レジに並んでいる私の後ろに食料でいっぱいの買い物かごを持った中年女性が早歩きで向かってきた。私の左脚のふくらはぎに彼女の買い物かごが接触していた。私は少しだけ前に出て買い物かごから離れると、すぐに中年女性がその間隔を詰めてきた。私の前の若い男性のポイントカードをレジ係の中年女性がコード読み取り用の溝に何度も擦りつけていた。結局、彼のコードは読み取られなかった。猫のキャラクターとその仲間たちが集結しているところが描かれたポイントカード。帰宅すると外から「痛い」と泣き叫ぶ幼児の声がした。「痛いの?」と幼児の父親が言ったのが聞こえた。上は黒いダウンジャケットを着て、下は膝丈のダメージデニムパンツを履いた老人男性がいた。ほとんど禿げ上がった頭。粗大ごみシールに名前と住所と電話番号を書くこと。私の寝汗の臭いがエアマットと寝袋に付着していた。重曹せっけんスプレーをかけてキッチンペーパーで拭き取るが、臭いは薄まるだけで完全には消えなかった。すぐに捨てること。猫が側道から飛び出してきた。猫の進行方向には煙草を喫っている中年男性がいた。彼と猫の目が合い、猫は進行方向を変え、私の方へ駆けてきた。猫は私と目を合わせた。私は猫の進行を妨げないように脇へ避けた。猫はそのまま直進して私を通り過ぎていった。側頭部の髪を伸ばして頭頂部の禿げに被せている老人男性が電車内にいた。彼の肩には頭垢がのっていた。本を開いて膝にのせたまま眠っている。時折目を覚ましては頭頂部に被さった髪を撫で付けていた。目的地に到着したので私は降車して階段へ向かうと彼が足早に追い越していく。肩の頭垢は消えていた。私の前を歩く男性の髪に白い糸くずが付着していた。私たちは共にエスカレーターで運ばれていく。喉に絡んだ痰を口内に吐き出して道に捨てる男性。彼は同じ動作をもう一度繰り返して、立ち止まって煙草に火を点ける。どこからかはわからないが、強烈な石鹸の臭いがした。ピンク色のダウンジャケットを着た女児が母親と歩きながら両腕を広げ、胸の前で閉じる。それを繰り返す。私は鼻から鼻水が垂れるのを防ぐために吸い込んだ。吸い込むほど鼻水なんて出ていないのに。
プロフィール:
https://www.instagram.com/jumpei.oyama/
杉山雄二 (写真家)
Stephan Keppel『Flat Finish』
ステファン・ケッペル(Stephan Keppel)『Flat Finish』は、2017年にオランダの出版社 Fw:Booksから出版された。オランダのビジュアルアーティスト、ケッペルは『Reprinting the City(2012年)』『Entre Entree(2014年)』をやはりFw:Booksから出版しており、ハンス・グレメン(出版社の主催者でデザイナー)とのコラボレーションで生まれた3冊の写真集は、一連のコンセプトで作られている。『Reprinting the City』ではオランダの港町デン・ヘルダー、『Entre Entree』ではパリ、そして『Flat Finish』ではニューヨークに焦点を当てている。ケッペルは都市の公共空間、表層、構造に興味を持ち、イメージの再利用、複製、印刷とその反復という一貫したコンセプトで、都市として造られた世界を、いかに印刷物のかたちで表現できるかを試みてきた。
では『Flat Finish』を構成しているイメージはどのようなものだろうか。まずはケッペルがニューヨークの街路や倉庫を歩き回って撮ったもの、それらは都市の構造が一目で把握できるような写真ではなく、建築物・構造物のディテールや表層のパターンをスキャンするように撮影されている。それに加えて、カナダ建築センターに保管されている19世紀ニューヨークの写真。ゴードン・マッタ=クラークのアーカイブ。ロサンゼルスにあるパラマウント・スタジオのニューヨークのセットを撮影した写真。インスタレーションを撮影した写真。石、金属、木のカタログ。古典建築のオーダーの説明図。都市を構成する色のサンプルとしてのパントーン。都市のメタファーとしての印刷物の構成要素として網点やラインのサンプル。このようにニューヨークについて現在だけでなく過去からも、様々な構成要素を引用、分解し再構成している。
シークエンスはこのように始まる。建築ファサード写真の上に白いペンキが塗り重ねられている(タイトルのFlat Finishはペイント缶に印刷されていた名称から来ている)。スタジオセットの裏側の構造。使い古された建付家具、木製の板、建具が無造作に並べられている。2枚のビニールシート片が木製の手摺に吊り下げられている。色鮮やかなオレンジ色をした地下鉄のプラスティック製ベンチ。古いレンガ造建築のファサードには目地から白化したモルタルが滲み出て不規則なパターンを作り出されている。木製家具の古典的装飾。建付家具の表面にある直線のパターンだけが抜き出される。そのパターンに類似する高層建築物のファサード。その直線パターンは分解複製されレイヤーとして木製家具の装飾と類似する様式建築のファサードと重ね合わされる。スタジオセットのために作られた装飾的な柱。都市の表層から裏面へ、建築物のディテールに現れた形象からその複製物へ、構造物の表面に現れたパターンから異なる構造物の近似するパターンへ、あたかもイメージを使って韻を踏むように並べられ、ときに形象は分解され再利用されレイヤーとして重ね合わされる。
この写真集を読み込むうちに、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』との類似性について考えを巡らせた。この小説は1972年に発表された「ヴェネツィア生まれの商人の子マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行なう」という設定の幻想小説だ。
「その河の瀬を渡り、峠を越えると、突然モリアーナの都城の前に参ります。日の光を浴びて透明に輝く雪花石膏の城門、蛇紋岩の上張りをした破風を支える珊瑚樹の列柱、水槽さながらガラスずくめの邸宅とその水母型なすシャンデリアのもとを舞い泳ぐ銀鱗の踊子たちの影。初めての旅でなければ、このような都市には必ずその裏側があることを人は心得ているものでございます。すなわち、半円を通り抜けてゆくだけで、はやくもモリアーナの隠された姿を目にすることでございましょう。錆びたトタン板とズックのキャンヴァス、釘だらけの木板と煤けた真っ黒な鉄パイプ、空罐の山、何やら書かれた文字の消えかけている石壁、枠だけになった椅子の残骸、腐った梁桁で首くくることにしか役立ちそうもない紐、といった具合でございます。その一方から他方へと、都市はそのイメージの貯えを増してゆきながらもその眺望は連続しているかのように思われます。ところが、そこには厚みがなく、ただ表と裏とがあるばかりです、ちょうど一枚の紙のようで、こちら側とむこうとにそれぞれ絵姿があり、それはたがいに離れることも、顔を見合わせることもできないのでございます。」
「フビライ汗はすでに気がついていたが、マルコ・ポーロの都市はいずれも似通っており、その間の移行にはあえて旅の労苦すら必要ではなく、要素の入れ替えでこと足りるというふうでもあった。今では、マルコが都市を語るごとに、偉大なる汗の心はかえって気ままに旅立ってゆき、その都市をばらばらに分解しては、まったく違ったふうに組み立てなおすのだった ー 材料を取り替え、置き替え、並び替えしながら。」
(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』河出文庫、米川良夫=訳)
この小説の主人公はあくまで「55の見えない都市」だ。その架空都市の存在の仕方、在り様についてマルコ・ポーロを報告者としてフビライ汗との対話を通して語られてゆく。マルコ・ポーロの語りは、一見ランダムに見えるが55の架空都市は、タイトルと番号が付けられ、規則性を持ちながら、同じようなリズムで反復される。『Flat Finish』では写真家が報告者であり、デザイナーが、あるいは写真家自身が受け手となり「その都市をばらばらに分解しては、まったく違ったふうに組み立てなおす」。都市(ニューヨーク)を構成するイメージ(構造、表面、パターン、リズム)を視覚的な「韻を踏み」ながら複製、移行、循環していく。これは都市の構成要素が本来持っていた機能的な意味を剥ぎ取り、新しい意味を与える行為と言えるだろう。400ページにも及ぶこの分厚い本は、写真家が都市の意味を求め隠された法則と秩序を探し求める長い旅の記録ようなものかもしれない。
プロフィール:
1966年東京都生まれ。神奈川県在住。写真作家/写真集愛好家。
これまでの個展に「Firegraphy (2016, The White)」「Individual Projection (2018, The White)」がある。近年出版されたものを中心に、国内外を問わず写真集の情報を日常的に収集している。2015年から参加しているTokyo Art Book Fairでこれまで4冊の写真zineを販売。現在「Firegraphy」「LOST / FOUND」の2冊の写真集を製作中。この連載では比較的新しい写真集を中心に、個人的に所有していて、好きな、興味深いが理解が難しい、といったものを読み込み、その背景や関連性をリサーチした記録のようなものを書いていきます。
澤田育久 (写真家)
ALTANATIVE SPACE The Whiteをオープンする一年前、私はこの場所をThe Gallery と名付けて、一年間毎月新作で展示をする実践の場として活用していました。
私の作品”closed circuit”は、空間の中で自分の写真がどのように見えるのか、展示を繰り返すことで実験と検証を重ねながら形作ってきました。
今でも私はThe Whiteを使って展示を行い、実験しながら作品を制作しています。
この連載では展覧会の記録写真を織り交ぜながら自分の展示を振り返り、検証を試みたいと思います。
closed circuit, monthly vol01 - vol.03
The White をオープンする一年前この場所をThe Gallery と名付け、2012年11月より一年間、毎月新作による展覧会”closed circuit. monthly”を開催しました。
The Gallery は事務所用の部屋を居抜きで使用していたため、ドアを開けると正面の壁は一面窓、壁面はモルタルで釘などはほぼ入らないなど、極めて展示に不向きな場所でした。
壁面だけの展示にした場合、主な展示スペースは実質左右両壁のみになり、何より入って正面が一面窓では写真があまりにも弱すぎました。そこで、最初の展覧会では梁に大判プリントを貼り、空間に吊るすかたちで擬似的に壁を作り正面の窓が目立たないようにしました。
そして入って右の壁面は8×10のプリントを、一日に撮影した分を一単位として帯状にプリントし、それをテープで直貼りして展示し、左の壁面は大判プリントを壁にテープで直貼りしました。
以降Vol.12まで大判プリントを基本の形として、内容によって8 x 10のロールや手札サイズのプリントなどを使用して構成しました。
この展示で気づいたのは大判プリントのイメージと、背後の壁面や窓などが新しいイメージをつくり、事務所用の殺風景な空間が違って見えるようになったことでした。 そこでVol.02では大判プリントを空間に自由に配置して、イメージ同士も干渉させ、部屋の空間を把握し難くするために、スタジオ機材のポールを使ってプリントを空間に並列して配置してみました。
しかし、黒いポールは写真に対して強すぎ、フレームのように作用してしまったので、Vol.03では部屋の高い位置にワイヤーを張ってそこからプリントを吊り下げる現在のかたちに変更しました。 写真を支える支持体が目立たなくなったことで、写真を裁ち落としにしている効果がより際立つようになりました。フレームへの意識が弱まることでイメージ同士の重なりや、イメージと空間の関係などを一層意識するようになりました。