Exhibition 展覧会情報
Room #202 #205
二人展 小山維子 + 片柳拓子「ア・プリオリな他者の記憶 The Memory of A Priori Others」
スプラウト・キュレーション企画
2024年06月01日 〜2024年06月30日
月曜・火曜休み
水–土曜:13~19時
日曜:13~17時
※ 通常のWhiteの営業日・時間とは異なりますのでご注意ください。
小山維子《人の態》2024
キャンバス、油彩
530×410 mm
片柳拓子《possessio》
Overview
小山維子の絵画は、うっかりその前を通り過ぎてしまいそうになる素っ気なさと、しかし気になってもう一度よく観ようとすると、どこか懐かしいような、それでいて考えるほどにその懐かしさには根拠がないのではないかと思えてくる、不思議な佇まいをしています。移動の途中にスマホのお絵かきソフトで書き溜められたドローイングは、直接的なエスキースと言うより、小山の内在を少しずつ満たしてゆくメモであり、その時点で視覚領的な記憶はチープなデジタルソフトによって既に抽象化されています。タブローの制作では、小山は先ず自身が描くべきフレームを設定し、そこから先は何をどう描くかではなく、何かを出現させるべく、潜在性に働きかけるように筆を進めていきます。絵画として立ち現れたイメージは、抽象なのか具象なのか、曖昧なのか明瞭なのか、解像度が高いのか低いのか、素っ気ないのか複雑なのか、そもそもこの絵はどう観れば良いのか? 鑑賞者は困惑し、チューニングを試みることになります。ラジオのチューニングダイヤルであれば左右に回しますが、この場合はトラックボールを回すように、全方向的な心眼のフォーカシングを要求さていれるかのような感覚…。人によっては心地よく、あるいは逆にストレスともなり得るこの同調のための滞留こそが、じつは小山維子の絵画の本質的な特徴なのかもしれません。
そして、もう一点、私はかねてから小山維子の絵画に何か「写真性」のようなものを感じていましたが、自分でもその意味がよく判らずにいました。ここでいう「写真性」とはもちろん「描写的」という意味ではありません。しかし相変わらずよく判らない…ならば写真と併置してみてはどうか? 絵画的な写真を措定することで何か見えてくるのではないか? その閃きが本展の起点になっています。
写真家である片柳拓子の、人物を入れない中距離~近距離の風景写真のシリーズは、明確な構図とハードなコントラストが特徴で、その意味では小山維子の絵画とは対照的と言えます。確信に裏付けられた画角からは、カメラを三脚に据えて撮影したのだろうと想像していましたが、さにあらず、実際は手持ちのコンパクトカメラだと言います。撮影者としての片柳の主体は滅却されており、ジャン・ボードリヤールの写真と「私たちは世界が私たちを見ている場合にしか、世界を見ることができない。」という言葉を真っ先に思い出させます。事実、哲学者ジャン・ボードリヤールは、多くの不可思議なスナップ写真と写真論『消滅の技法』(1997年)を残していますが、2014年アンヌ・ソヴァージョの著書『ボードリヤールとモノへの情熱』(2021年/塚原史:訳)が刊行されるなど、近年は実在論的なアプローチからの再評価が高まっています。片柳の写真は、コンパクトカメラであること、人間が写っていないこと、何より世界が垣間見せる異形に反応する独特な嗅覚など、ボードリヤールの写真との共通点を見い出すことは難しくありません。しかしボードリヤールの写真との決定的な違いは、ボードリヤールが自身のそれまでの言説との自家撞着を忌避するために、彼の写真が美的であるという指摘に頑なに反発したのに対し、片柳は、光と影、直線(人工の静物)と曲線(運動の痕跡)、サーフェスに纏うアフォーダンスを戦略的に脱構築し、自身の写真イメージを極めて絵画的なものにしている点にあります。私が三脚を使っていると誤認したのも、スナップの即興的な構図とは俄に信じがたいほど緻密だからに他なりません。このことはボードリヤールを知らない、ボードリヤール的な写真家である片柳拓子の強みだと言えます。そして片柳の写真の絵画性もまた、小山維子の絵画によって改めて逆照射されるのではないか?
スプラウト・キュレーションの神保町オルタナティブ・スペースThe Whiteでの企画展示第2弾は、このような画家・小山維子と、写真家・片柳拓子、それぞれ独自の話法を持つ作家による二人展です。ご覧になる方はぜひDJ感覚で、絵画の写真性と、写真の絵画性を左右のターンテーブルに乗せて、ミキサーのスライダーを動かすように楽しんで頂けたらと思っています。
(スプラウト・キュレーション主宰・志賀良和)