ALTERNATIVE SPACE The White

Exhibition 展覧会情報

石垣 裕「要求の射程」

石垣 裕「要求の射程」

2014年07月22日 〜2014年08月02日

13:00〜19:00 日・月曜 休み

Statement

「何を写すか~つまりモチーフの発見だ。これがリアリズムにおいて一番大切なことです。写真は見るもの見せるものだ。そして見た時の感じは現象の如何によって決する。写っているものの現実によって人に訴えるのだ。それはただ美しく写せば良いサロンピクチュアとは違うのだ。今日には今日の、明日には明日のモチーフがあるはずだ。それを発見する。」

戦後、土門拳が近代写真の確立を目指し、理論と実践の両面によってリアリズム運動を牽引することになるのはよく知られている。
この写真におけるリアリズムの時代と現在は、どれ程隔っているだろう。

土門自身、「リアリズムを写真の唯一の道である、永遠の方法であるとは考えない」と語り、実際に今、写真制作の現場で主義や運動が生まれるとは思えないし、現実を直視しありのままに写す、といった認識のもとで撮影に挑む困難と共に、当の撮影主体=写真家が、土門が理想としたような主体像を描けなくなっている。
それでも、土門が発見するモチーフについて「~ たとえば放射能の雨というものをどう写真化するか、どう写真につかむかということを一つの課題として、やはり考えてもらう必要があると思いますね。」
という発言は、「ヒロシマ」以後の意識について語っているだけでなく、現在の日本の問題でもあるかのように私に響く。
リアリズム写真は、単に目の前の現実を写すという事だけでなく、日本の社会やその問題を、人間がカメラを使って捉える為の実践だった。

私は知られたはずの見慣れたもの、街行く人々、多くの誰もが目にするものに、自ら的確な理由も解らないままにレンズを向けシャッターを切る。
これは、ある問題を浮かび上がらせることを目的として何かを写す、という方法とは言えない。
私は何故それを写そうとしたのか?
カメラは機械であるから「私」が介在しない、というよりも、カメラを持ち自分の外側を見ることによってしか写真家としての「私」はない。
撮影から後の選択にかけて、改めて「写されたもの」を見い出す。
そこにこそ、自らも含めて、世界や他者について知るきっかけが現れる。
写真制作はこうした契機を捕らえる、賭けのようなものだ。
この賭けのなかで、写真によって何を発見出来るのか、何をつかむことが出来るのかが、「私」に試されている。